2014年6月24日火曜日

マスコミについて思う事

今日、フットボールチャンネルさんの「【W杯】日本代表の停滞を招いたサッカー媒体の堕落。1敗1分は“メディアの敗北”である」という記事を読んだ。

リンク切れ保障はないですが、一応リンク貼っておきます。


その中に以下のような記述があった。
サッカー界には「サッカーファミリー」という言葉がある。明確な定義は不明だが、同じサッカーを生業にする者、サッカーを好きな者同士、みな家族。そんな意味合いだろうか。それ自体は素晴らしい言葉だ。しかし、信じられないことに、メディアにも「ファミリー」の一員であると思っている人間は多くいる。

 メディアとは公平で、冷静でなくてはならない。取材対象者と“ファミリー”になっては、厳しい指摘ができようもない。もちろん選手に嫌われる可能性もある。だが、それを恐れるばかりにイエスマンになっては、日本サッカーの成長は望めない。

報道としての姿勢の話で、取材対象に嫌われるのを恐れずに、どんどん指摘していく文化がない事で、サッカー界自体の向上が遅れているのではないかと言う主張だった。


記者としては、取材対象に嫌われて情報を流されなくなったら死活問題だから、つい迎合してしまうんだろう。

しかし、それなら広報で十分。ジャーナリストは必要ないという指摘だ。



これを読んで、全く同じではないが、似たような問題を政治の世界も抱えているなと感じた。


大手新聞社はそれぞれ政治主張がある。

そして彼らは自分たちの都合の良いように、質問の仕方や表現を駆使して記事を仕上げている。


結果、事の真意とはかけ離れた印象を持たせる報道がされている。


先の記事にもあったが、報道の基本は「真実を正しく伝える事」なのであり、自分たちの主張を通すことではない。

まず、この「政治的傾向」をなくすよう努力すべきなのではないだろうか?


昔はすべての新聞をとって読んでいる人は少なかっただろうが、インターネットで各社の記事を読めるようになった現代では、今までのように読者をだまし続けることはできないだろう。


糾弾される前に姿勢を見直し、報道の本来の姿である「真実を伝える事」に注力してもらいたい。



ただ、これだって簡単な話ではないはずだ。


人間の関わった事件や事象であれば、そこにいた関係者の「思いや考え」だって報道対象になるのだから。

適切な関係者を探しだし、その真意を引き出す質問力が必要だろう。


さらに集めた情報をすべて書くわけにはいかない。

適切なサマリや抜出しをして、出来るだけ的確に真実が伝わるような表現力が必要になる。


どうだろう?

どちらも現在、自分たちの主張を通すための道具として使っている技術なのではないか?


今後は力の使い方の誤りをただし、さらなる研鑽がされていく事を望みたい。


これこそ、「マスゴミ」と揶揄されている現状を打破し、子供たちのため、よりよい社会を残していくために必要なジャーナリズムを作る方法なのではないだろうか?


民主主義において、愚民化は社会の崩壊を招く。

すべての国民が知識層になることが理想なのだから。

0 件のコメント:

コメントを投稿